創部100年企画公開動画座談会元原稿ページ別冊 THE マンドリン企画

同志社マンドリンクラブ創部100周年記念座談会


各位
先日は忙しい中、ありがとうございました。座談会ページの校正用文字を送らせていただきます。
ページは、各見出しごとに回を改め、画面で眺める一回あたりの量は少なめに構成します。
全12回。プラス岡村さんへの単独インタビュー記事を別枠というか特別付録として同時公開します。
それはまだ未完、いましばらくお待ちください。
ページの構成デザインは、最近の他のインタビューとほぼ同一です(参照→こちら)。ただし扉を制作します。

■→校正プリントアウト用PDFのダウンロードボタンを作りました■ →こちら
それぞれ、ご自分の発言部分を中心に校正していただきFAX返送いただければこちらでまとめ、
修正後のものを再度見ていただけるようにします。よろしくお願いします。

※校正は、画面文字データを取り込んでいただき、修正→メールをいただければなおうれしいです。

※言い回しなど、口頭の聞こえたままの、とくに関西弁部分、ニュアンスは多数残してありますが、残せるだけ残したままのほうがよいと、個人的には思っています。

※文末によく挿入される「(笑)」というのを、ぜんぶ「はははは」または「あはははは」と表記しました。
内輪受けというより、共感の意図を示したくてそうしています。

※地の文、といいますか、私の作った解説部分、間違い、要訂正、ご要望等ございましたら、たいへんお手数ながら、
なんなりとご指摘、おもうしつけください。


▼写真は↓これをメインに全ページ使う予定です。手前勝手ながら、みなさんの表情がそろって素晴らしいとおもいます。
NGカットはご欄いただくなくてもいいですよね? 勝手にそう判断させていただきます。
SMD
出席(写真後列左から):
吉村 宣央(4回生)
赤井 悟(53年卒)
田中 昭彦(42年卒)
中村 泰彦(42年卒)
山本 さん(3回生)
(前列左から)
井口 祐一(60年卒)
吉村 良之(42年卒)
石村 隆行(60年卒)
岡村 光玉(45年卒)
野口 英介(39年卒)
・・・の各氏


同志社大学マンドリンクラブが今年2010年、創部100周年を迎えた。これを記念し各種行事が企画され実行されつつある。京都で1回(3月6日)、東京で1回(9月10日)計2回の記念演奏会。「百年史」の編纂出版(3月6日京都演奏会当日)、記念資料展(3月京都)。これらの宣伝を非力ながら「ギターの時間」でお手伝いさせていただくことになった。マンドリンも好きなギター(WEB)マガジンとしてスタートした身としてはたいへん光栄なこと。マンドリン界のこと、マンドリン音楽のこと、いずれに対しても素人丸出し。でもそれだけに一般音楽ファン目線を持っている。そのことだけが強みですが、たくさんの人にマンドリンのことを知らせたいという思いは一致して、座談会の進行も引き受けさせていただいた。このページに辿り着いたみなさん、どんなきっかけであったにせよ、ありがとうございます。ぜひ最後までお付き合い、よろしくお願いいたします。


なぜイタリア派なのか?


 同志社大学マンドリンクラブのレパートリーは、主に19世紀後半から20世紀前半くらいまでのイタリアの作曲家によるものが多い。当初、なぜそんな偏った選曲をするのかわからなかった。しかも日本にあってはたいへん失礼ながら作曲家名がマイナーである。たしかにマンドリンはイタリア生まれ。ギターを伴奏楽器に従えて、ある時期イタリアでは音楽の中心にいたようだ。でも今は? ともかく残された同志社大学マンドリンクラブの録音を聴かせていただいた。演奏の巧拙はあるだろう。けれど、聴こえてくる音楽はときに勇壮、ときにリリカル。幾層ものモチーフが鮮やかな対位法の中で躍動している。
 これがマンドリンで演奏されなかったらどうなんだろう? 吹奏楽だったら?管弦楽だったら?ピアノだったら?いろんな放物線が見えることもあるのだが、しかしマンドリン以外には考えられない、という作品のなんと多いこと。編曲作品であっても。
 クラシックの管弦楽作品の編曲によるマンドリン音楽の世界は、すでにひとつの世界を持っている。でもここにもうひとつ、イタリアの作曲家が残した世界が宝物のように伝承されている。しかもこれは、伝統芸能の温存のための伝承とは意味合いがだいぶ違うように思う。
 この座談会はそこに深く携わり続けている人たちへの直接取材でもある。

部活なのに演奏旅行?

ーー座談会にあたって、20年前に発刊された「同志社大学マンドリンクラブ80年のあゆみ」とSMD会ホームページの「年譜」を丹念に拝見してきました。その中で最初に興味深かったのが、演奏旅行のことです。部活なのに、戦前もそうですが戦後の地方演奏旅行は毎年主に春に企画されて、行く先々押すな押すなの大盛況だったようですね。今この座談会にご出席いただいているOBの方が、このクラブの絶頂期を体験というか、作り出したご本人たちですよね?
吉村:けっこう入っていましたよ、お客さんが。こういう興行が、当時はまだ珍しかったんです。ライブが少なかった。一般的に娯楽というものが少なかったしね。だから会場はいつも満員だったね。1948年頃・・・ぼくらの時代はね。地方旅行だったけど。
ーーしかし1回ツアーに出ると10箇所くらい公演をやっておられましたよね?
田中:選抜チームでね。
中村:35名から40名やったかな。
赤井:当時のクラブのスタイルとしてね、一般のひとたちに迎合するというか馴染みのよい選曲でやってたんですよ。場合によってはフラメンコを入れてみたり。そういうところで一般受けしていたというところもあると思います。
ーーしかし、それで公演を見たお客さんはリピーターになったりもしたでしょうから。
赤井:まあそうでしょうね。
ーー会場の雰囲気ははどんなだったんですか? お客さんが会場に入りきれないくらいだったそうですが。
赤井:定期演奏会でさえ、昼と夜、2回やったことがあるくらいですからね。やはりお客さんは多かったですね。
ーーワンステージ、何時間ほどの公演だったんでしょう?
中村:30分くらいやったかなあ。それで3、4ステージ組むから全部で2時間くらい。
赤井:演奏旅行は県人会からのおよびが多かったんです。各地の同志社大学県人会ですね。そこが呼んでくださって、お客さんも集めてくださった。
吉村:ぼくらがプロモートする必要はなかったんです。県人会のみなさんが用意してくださる公演をわたり歩くというかんじでね。で、県人会も収益がほしいから、それなりに人を引きつける曲によるプログラムがほしいわけです。お客さまにきていただけるようにね。
ーーその県人会にとって、マンドリンクラブはどういう存在だったんでしょうか?
田中:当時大学にはグリークラブ、軽音楽部があり、それにマンドリンクラブ。この3つがあって、ある頃から、ショーとして交代というか、たとえば今回はマンドリンクラブは北海道、グリークラブは九州・・・みたいなことで割り振っていたこともありましたね。
赤井:県人会によるそうした活動は、学園紛争を境になくなりましたけどね。
田中:今はかわりにクラブが主催して地方演奏会としてやっていますね。同志社にとっては、東京演奏会も地方公演のひとつなんです。
ーー当時、地方へいくと完全に公演だけだったんですか?
野口:テレビ局に出演するというようなことはよくありましたね。ラジオとかね。
田中:昔は地方にいると、生の音楽に接する機会というのが少なかったから、そういう場所でも生演奏しました。


時代に応えた活動


ーーマンドリンやギターは1960年位を境にすごくポピュラーな楽器になっていきますが、マンドリン・オーケストラの盛り上がりもそれと歩調を合わせていたわけですよね?
赤井:地方の各高校にマンドリンクラブができたのが1960年代、その頃に固まってできてますから、そのことと無関係じゃないと思いますね。そういう時期だったんですね。
 大学のマンドリンクラブができたのも多くはその時期からなんです。戦後から出発しているところはね。
ーー同志社をはじめ、代表的な名門クラブは明治期の同じ頃にできていますね。
赤井:そう。それ以降の新しいクラブは、戦後、それも1960年前後からのところが多いです。
ーー今ここに出席されているみなさんの体験してきた演奏旅行は、戦前までの演奏旅行と、こころざしとかクラブ内の雰囲気とかほぼ同じ空気というか気分を継承していたものなんでしょうか?
野口:いやあ、ずいぶん違うと思いますね。
ーーポピュラー音楽の匂いがだいぶ入り込んでいるからですか? 
中村:戦前の話なんかは、もう私も聴いてないですからねえ。
吉村:ぼくらでさえ、昭和30年代からのことですから。
野口:私はマネージャーをやっていましたが、演奏旅行の内容に関しては、県人会の世話人とわれわれの担当者の間で相談して決めるというかんじなんです。ギャラという言葉が適切かどうかわかりませんが、そういう出演料に関してもいくらにしてほしいとか、旅館はただにしてくれ、交通費はどうしましょう、といったことを交渉しましてね。
中村:そのギャラというのは、いただいても学校に納めるんです。われわれは全然私物化しないんですよ。いい演奏をして出演料をいただき、それを学校に納めて、学校はそれを各クラブに分配するということです。
ーークラブ員、つまり学生からの持ち出しは?
田:ほとんどなくてすんでたと思いますね・・・。
中村:あるとすれば、県人会の催し以外の空いている日、そういう日の費用は自分たちで負担するんですよ。
ーー中野二郎先生が顧問になられる前と後で、演奏旅行の内容がかわったということは?
野口:それはないですね。



1963年アメリカ演奏旅行


石村:アメリカに学生選抜で行ったときがありましたね? あれは持ち出しですか?
野口:私が世話役担当でしたが、ほとんど持ち出しはありませんでしたよ。基本は全部主催者側がお膳立てしてくれました。あの当時は外貨を持ち出すことができなかったんですよ。だから、向こうでやっていただかない限り、ああいう興行は成立しなかったんです。そういう意味で個人負担はまったくありませんでしたよ。
中村:渡航費も持ってもらいましたね。
石村:すごいですね。
赤井:その費用に関していうと、OB会でなにか、募金してましたね? 野口:交友会とかなんとか言うて、日米交流のための〜という趣意書を持って各企業を回りました。
赤井:だから現役負担はなかったんでしょうね。
野口:そう、なかった。
中村:演奏会をやってそのための費用獲得いうのもあったと思うな。
野口:うん、やったかな。
ーーその選抜メンバーはどうやって決めたんですか?
野口:その前年、1962年に全日本学生マンドリン連盟ができて、その連盟行事の一環としてやったんです。
中村:試験があったらしいですね。選抜試験。
野口:中野二郎先生や比留間先生など8名くらいの方に、試験官になっていただいて。で、全国から希望者が集まって、東京でオーディションをやったんです。オーケストラはそこで選ばれたメンバーで構成しましてね。
ーーどのようなオーディションだったか覚えてらっしゃいますか?
野口:ええ、覚えてますよ。課題曲がありましてね、それを先生方の前で弾かされるんです。そうとうな名手が集まりましたね。このオーケストラの学生指揮者が同志社の川村だったんですよ。
ーー当時、学生の活動としてはすごく画期的なことだったんでは? 他の楽器、ジャンルでもなかなかなかったことではないんでしょうか? 野口:そうだったと思いますよ。マンドリンではその前に同志社で、沖縄に行ってますが、これは今と違って日本に返還される前のことですからね。戦後では初めてのことだったんじゃないでしょうか?
赤井:川村さんがこのときのことを書き残されていますが、40人くらいの編成で、各大学のトップ奏者が集まりましたから、技術的には相当高いレベルだったそうですね。
ーー演奏はすぐにまとまったんでしょうか?
野口:たしか白樺湖で合宿をやりましてね。それで音あわせしましたね。みな優秀な人たちばかりでしたから、すぐにまとまったと思いましたよ。同志社は8人はいっていましたね。
赤井:多いですね。
ーー田中さんとか、そういう先輩がいるクラブ、という時期に入られたことになりますか?
田中:そう。われわれはね、そのアメリカに釣られてマンドリンクラブに入ったんですわ。
赤井:「また行けるか!」って。
ーー同志社マンドリンクラブの雰囲気というのはずっと変わらないんですか? 在籍した4年間のことしか基本的にはわからないと思うんですが、それぞれの時代、どんなふうに見えておられたのか教えてください。
野口:僕の時代は、大学に入ってからマンドリンやギターを始めたという者が多かったですね。だからむしろ、友達作りとか和気あいあいとやってた気がしますね、だから・・・。
赤井:女性が多いクラブだったでしょ?
野口:いやたしかに女性が多かった!
赤井:私が3回生くらいの頃も、楽譜が読めないという学生がけっこう入ってきてましたね。合唱しかやったことがないというて。
田中:そうそう。
赤井:それは今はいてないんじゃないですか?
石村:いやそれは今でもそうですよ!
田中:いやだから、それは上級生が下級生を指導してるんやもん。
ーー年配の方の世代では、若い頃ハーモニカがブームでしたよね? 戦前、戦後。しかしハーモニカは楽譜が必須じゃないですよね?
赤井:1、2、3。
ーー楽譜で音楽をやるというのは、かなり高度なことだと思うんですが。
田中:訓練やね。
赤井:うん、訓練ですね。わたしの先輩の楽譜にはフリガナが振ってありましたね。「ガン・バレ・ガン・バレ」と。それで4拍とか。
一同:はははは。
赤井:それを何回か繰り返してね。
田中:ドレミファソラシ・・・って振ってるやつもおったよ。ぼくはびっくりしたけど。
吉村:いやほんまにね。

身近な楽器

ーーマンドリンはみなさんにとってどういう楽器だったんでしょうか? 若い頃から身近だったんですか?
野口:私の場合はね、わたしの親父の時代〜大正時代に一回マンドリンが流行ったことがありましてね、それで家にありました。だからこの楽器のことはわかっていたし、学校に行ったらマンドリンクラブに入ろうと思ってましたね。そういう家庭は多かったんと違うかな。
ーー高価なものでしたか?
野口:家にあったのは国産の安いものでしたよ。
ーーいまの貨幣価値でいうと、安いと言っても趣味の品物としてはかなり高い部類なんじゃないでしょうか?
中村:初心者向けのマンドリンは、3,500円くらいでしたよ。スズキ製が。ギターでもそんなもんちゃうかな? 5,000円くらい? 今のいくらくらいかな? 昭和38年で、その価格が記憶にあるんやけど・・・。
田中:時間給が80円とか言ってなかったかな。
赤井:うーん、そんなもんやったですかねえ。
中村:10倍とすれば、今の30,000円。
赤井:昭和50年頃は10,000円でしたよ。その初心者向けと言われる楽器がね。教則本とか音叉がついて初心者セットで10,000円やった気がする。
ーーいまも格安エレキギターセット10,000円とかありますよね。
井口:そうですね、あります。
ーーマンドリンの身近さ加減というのは、他のみなさんも、そうかわりありませんか?
中村:わたしらも高校からやってたからね。
田中:私は大学入学の前にギターをやっていました。だから、まあ、マンドリンが好きというより、違った楽器と合わせたくて、マンドリンクラブに入ったんですよ。そういう人もけっこういましたね。
ーー田中さんの時代だと、ギターはもうナイロン弦ですよね?
田中:そう。
中村:あのね、同志社はナイロン弦に切り替えるのが早かったんですよ、戦後間もなく。三浦さんあたりから。昭和20年代からですよ。
田中:アメリカの演奏旅行の頃、慶応辺りはその翌年から変えたんじゃなかったかな。それまではスチール弦だったんじゃなかったかな。
中村:関東ではあの翌年くらいから切り替えたんじゃないかな。
赤井:ガット弦を張り出してからギターのソロができるようになった、と書き残していますね。
ーーコンサートのプログラムにギターの独奏コーナーができてきたんですね。
20:17 ところでマンドリンは、中学高校から始めても、形になりやすい楽器かな、と思うんですが。
赤井:そうですね。ピアノとかと違ってね。
吉村:それで、“合奏の楽しみ”でしょうね。
ーーマンドリンを演奏している姿へのあこがれ、みたいなものはいかがですか?
赤井:まわりにはあまりなかったんと違うかな。一般の人の間ではそうは多くなかったと思います。大学生の中ではかなりあったと思うけど。
吉村:ぼくらの頃はウクレレ全盛じゃなかった? 
野口:ああ、ハワイアンとね。
中村:マンドリンは、戦後、大学がマスプロ化する過程と一緒に流行ってきたんと違うかな?




学生。でも本分はマンドリン


ーー学生生活の中でマンドリンを弾く時間があったということで、ほかの学生さんたちと、なにか生活面で違いを感じることはありましたか?
田中:今の学生とはたぶん、ずいぶん違うと思いますね。ぼくなんか、クラブ漬けでしたね。授業に出ずに。というか、授業の時間割はクラブの時間に合わせてとる、と。
赤井、中村:そうそう、はははは。
田中:そうすると授業は午前中だけ、とか。
吉村(現役):いや、いまでも僕ら、そうですよ。
全員:ははは、そうか!
吉村:ことにぼくらの頃、中野先生が指導にいらっしゃるという日は優先したね。
中村:「授業には出るな!」って先輩が命令してやってましたね。
全員:はははは。
吉村:時間割を提出させてね。これはいらない!と。
吉村(現役):僕ら、今もそうです。時間割を集めていて、先生が来られる日は、なるべく参加しましょうって声をかけてます。
中村:そうか・・・。
田中:練習時間はだいたいが夕方やったけどね。
中村:平日は2時半からやったね。土曜日が1時から。だからそれ以降の授業はとるな、と。で、たとえばどうしても出ないかんフランス語の授業があったら、この先生に聞け、とか指導してね。その先生がOBの親やったから。
全員:はははは。
野口:そういう意味ではみなクラブ漬けでしたな。
 私はずっとマネージャーの仕事をしていたので東京へ行ったり地方へ行ったりしてまして、じつはあまりクラブの練習には出られなかったんですよ。だからたまにクラブにいくと、下級生から、「卒業した先輩がきた」って思われて。それくらい顔を出せなかったですねえ。
中村:そうやってクラブ漬けになってた世代のその8年後に岡村さんはヨーロッパに留学したんですよ。
ーーああ、時代がそういうことを許したということはあるんでしょうか? その後はどうなんでしょう? 石村さんの頃は?
石村:僕らの頃も、まだ「授業へ行くな」というのが通用した時代でしたね。今はそれやると、もう学生の中から文句が出てくると思うんですけどね。



トレーナー制度

ーーこのクラブはOBとの交流もさかんなようにお見受けします。みなさんがマンドリンに熱中した時代、ある期間だけだったとはいえ「トレーナー制度」というのを取り入れて、成果を上げておられましたよね。それも、OBとの交流のひとつだと思うんですが、まず、合同演奏というのはずっと伝統的にあるんですか?
野口:OBと現役がいっしょにやるというは、80周年記念の合同演奏会とかね。
中村:それまでは、なかったですよね? それが初めてだったと思います。
赤井:戦後すぐの頃は、OBもいっしょにステージに出てましたけど、それは、現役だけでは構成人数がカバーできなかったのでね。だから特別な場を設定しなくてもOBとの接点はあったと思うんです。
中村:1960年以降人数が増えてきたということがあって・・・。
赤井:急に部員数が増えてきて、そうなると奏法の伝達なんて言うのはかんたんにできんようになってきて、それで、トレーナー制度を導入したんですよ。
中村:1回に100人からの人数が入ってきましたからね。
ーーその頃の部室とか練習場所はどんなだったんですか?
田中:今と同じ位置にありましたけどねえ。
野口:今の鉄筋の校舎と違って木造の平屋で。
田中:暖房も冷房もないところでね。
中村:で、平日は木造の2階の部屋で、土曜日は幼稚園でやってたましたな。園児用の小さい椅子にすわってね。
赤井:ぼくの時は前の学生会館の場所でやってましたね。で、途中から現在の新町校舎・新町学生会館ができましてね、そこでやるようになりましたね。幼稚園は僕のときは使わなかった。ほかには御所の木陰で練習したり。
吉村:野外活動やな。はははは。


※クラブは創世記、菅原明朗さん(すがわらめいろう1897-1988)という作曲家の先生に指導を受けオーケストラとしての資質、同志社独自の音楽理念ともいうべきものを確立した。これが、第1回、第2回マンドリンコンクール連覇という実績を残すことに貢献している。この先生は、33歳にして帝国音楽学校(現・芸大)教授となり服部正、小倉朗、深井史郎、古関裕而ら日本の昭和歌謡史、音楽史を彩る名作曲家を数多く育て、自身死の直前まで作曲活動に人生を費やす。日本のクラシック音楽史に実績を残した人なのだ。多作で楽譜作品や著作は一部残されているが、演奏された作品のレコード、CDは少なく、またポピュラー作品や放送関係とは縁が薄かったらしく、一般的な知名度はそう高くないのだが。この人が東京で音楽生活を始めると、クラブとはやや疎遠になり、クラブはしばらく音楽的指導者不在の期間が続く。クラブの方針も時代の流れとともに、確たるものが薄れた時期がある。それを案じたOBらを中心に、菅原氏に相談し、推薦されたのが名古屋在住の中野二郎氏(1902-2000)だった。氏は1963年から22年間にわたりクラブの指導にあたった


同志社メソッド?

ーー菅原明朗先生時代と中野二郎さんの指導時代の間の期間というのは、音楽的な方針はどうなってたんですか?
野口:特定の指導者がいない時代で、昔の伝統的なものから外れていった時代でしたね。それで、そのことを先輩方が危惧されて、やはりどなたか先生を呼ばないといかんのじゃないか、ということで、中野先生をお迎えすることになるんですが。
赤井:菅原明朗先生が関わっておられた期間というのは、割合短いんですよね。だけどもその気風がずっと受け継がれていたんです。戦争が終わる頃までですけど。だけどもそこから人数が増えるに従ってそれが乱れてきたということですね。
ーー時代の自由な空気もあったんでしょうけど。3035
吉村:しかしね、中野先生がこられる前の定期演奏を聴いたことがあるんですけど、じつにひとりよがりの解釈による音楽で感心できなかったですねえ。
ーーそうですか。中村さん、田中さんは、現役として中野先生をお迎えした世代ですよね?
赤井:中野先生が来られてがらっと変わりましたからね。それで古いOBからも一時文句が出てましたね。
中村:10年くらい前までわれわれも演奏会をするたびに古いOB から言われたんですよ。ここ10年くらいです。同志社、うまくなった、といってなにも言わなくなったのは。
 以前は会うたびになんでこんなんすんねん?って言われてましたから。
井口:ちょうど中野先生が辞められて、指導者不在期間ができたときもそういう声は多かったですね。
ーー中野先生の指導内容ということにも興味があるんですが、中野先生をお迎えしたちょうどその頃ですよね、さきほど話題にしたトレーナー制度を始めたのも。どういうものだったんですか?
中村:5人くらいに対してOBのうまい人をひとりつけるんです。それで全部でトレーナーは10何人くらいだったかなあ。で、通学路に沿って部員を集めるんです。その路線のうまい3回生、4回生が彼らを教える。大阪の環状線のこの線の学生は、この先輩のところ、っていうふうに。で、その先輩の、主に家でやるんです。
赤井:家だったり、職場だったり。
野口:中村くんは、卒業してから家でそうやって教えてくれたんだよな。
中村:そうです。みなボランティアでやってましたね。
野口:いや人によっては有償だったケースもあるよ。
中村:僕はもらってないですよ?
野口:そういうひともおったようですよ。ことにプロとしてギター教室やっておられた人の場合とかだけどね。
ーーマンドリンの場合、教則本を使うんですよね? 中村:もちろん。ムニエルです。ギターはカルカッシ。やることは決まってるんです。マンドリンは第3ポジションを終わるまで、ギターは第9ポジション終わるまで。それはなんぼ弾ける人でもそれを終わらないと合奏にいれてもらえない。
ーーかなりハードルが高くないですか。
中村:高いです。それで半分辞めていくんです。
吉村:そうやね、それでかなり辞めていく人がいたね。
田中:われわれの時代でも、残ったのは最初の3分の一になったものね。
ーーかなりのものですね。その教則本には、初級といってもそれほど詳しいことが書いてある訳じゃないですよね? 課題曲が並ぶだけで。
中村:だからそこはトレーナーのOBが手をとり足を取って教えていくんですよ。
ーーそこで「同志社メソッド」が伝承されていったわけですね??「80年史」にも中村さんが文章でそのへんのことを割合詳しく書き残されていらっしゃいましたが。
中村:そうそう、たとえばね、「手首はこうする」とか「ピックはこう」と。
野口:“同志社奏法”というのは僕のときもよく言われましたね。
中村:ベタな持ち方では早いフレーズのトレモロなんか弾けないからね。
赤井:1922-3年頃の先輩にそういうことに熱心な方がおられたんです。熊谷忠四郎さんという方で、SMD三羽烏と言われた中のおひとりなんですが、その人からずっと伝わっているんです。ただ、“同志社奏法”という名前がずっと伝わっていたかというと少し疑問なんですけどね。ただ、ムニエルの教則本なんかで指摘している方法とはちょっと違うな、っていう点はあって、それは意識していましたね。
中村:石村さん、そのへんどうなの? 昔の弾き方っていったら。
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石村:昔は手首でぴろぴろぴろ〜っていうやり方なんじゃないですかねえ。で、手首で回転させてアップを弾くという。
井口:比留間(ひるま※)奏法とふだん呼ぶことが多いんですが、振り子奏法と呼ぶことも多いですね。
吉村:アップでひっかけて、こう弾くやり方ね。
石村:中野先生の本でもアップは抜くって書いてありますね。関東では多いように思いますね。
ーーアップを抜くというのはどういうことですか?
石村:アップのとき弦を一本飛ばすんです。
中村:まあそれはそれでいいんですけどね。
※比留間:※※※※※※※※※※

演奏法の変遷



ーーそういう奏法のことで、統制を図るとかそういう指導は、年代、世代によって徹底の仕方は変わるんでしょうか?
赤井:大きな流れで言うと、戦前まではずっとそれが伝わってたんですね。同志社が作った奏法としてね。しかし戦後は人数が増えるに従って、いろんなスタイルが混在してますね。いろんな弾き方、自己流が混ざってきて。指導しきれなかったという面もあるんでしょうね。それで、トレーナー制度を入れるという流れになったと思いますね、
田中:昭和30年代というのはたくさん演奏会があって、それのいくつかはお金にもなっていたと思うんです。そんなこともあって、奏法もそれぞれになってしまう面があったかもしれませんね。
野口:ありましたもんねえ。
中村:でもぼくらは2本2本で弾くって教わったけどなあ。
赤井:僕もそうですね。
中村:だから1本で弾くっていうのは笑われたもの。
ーーそうしたOBの演奏をご覧になっていて、「あら?」と思ったり「へえ!」と感心したり、っていうことはありますか?
吉村:ちょっと教えてもらった弾き方と違うなあ、という部分はありますけど、どっちがどう、というふうにはかんがえていないですね。僕も山本さんも中学からやっていて、中学のとき基本的なことは教わりましたけど、大学ではあまり細かいことを指導される場面はないですね。だからベースは中学のときに身につけたことなんです。
ーーそうすると、弾き方に関しては任されている、出す音で勝負ということですか?
山本:比較的任されているという感じだと思います。
ーー石村さんの指揮、指導を拝見していてもこういう音がほしい、という具体性はありましたけど、「ピックを弦に対してこう弾いてくれ」というような具体的な指示はほとんどないですよね?
石村:合奏においては、それを考えるのは、パートリーダーだったりすると思うので。継続して指導する合奏団だったらそういうやり方、言い方もありますけど、こういういろんな年代が集まっての合奏というのは、そういう意味で難しいですけどね。
ーーでも、みな同志社なんだから、「これで行くぞ!」みたいなことにはならないんですか?
石村:それこそ時代時代によって微妙に異なる面、奏法のズレというのがありますからね。古い先輩だったら、もう何十年もそのスタイルで弾いているはずですから、それを急にたった一回の場で「弾き方をこう変えてください」とは言えないです。
 だからどんな方法を使ってもいいから、求める音を出していただければそれでいいって思っているんですけど。
赤井:1970年から80年にかけて、同志社で一時音が汚いって感じる時代がありましたね。ただ、ボリューム、迫力はあきらかにあった、すごかった。だから表現の幅は増えたんかなあというふうにも聴こえたんですが。
 ただ、今は昔のようなやりかたでは石村先生の要求なんかには応えられしませんわ。全然違いますわ。うまく弾くなあ、うまいなあと思いますもん。大きいところは大きく、弱いところも弱く、でも全部うまく聴こえる。たいしたもんだと思いますね。
石村:ただ、それはレパートリーが変わっていったから、それに対応するためというところがありますよね。中野先生が様々なレパートリーを持ち込んで。新しい曲を編曲されたり作曲されたりして。それでシンフォニックで規模のでかいものが増えていったので、それに対応した演奏法の変化はあったかなとは思うんですけど。4300 
中村:そもそも今は編成もバランスがいいでしょ。われわれなんかはもう、チェロなんかは少なかったからむちゃくちゃ音を出せって言われて、かえって荒くなったりおかしくなったことはありましたね。異様な編成でね。100何人いて、チェロが10人ドラが3人とかね。あり得ない編成でやってた時代やからね。
赤井:増えていく人数に対して楽器の購入が間に合わなかったということもありましたね。
ーークラブの楽器も常にある程度確保するようにされていたんですか?
赤井:マンドリンやギターは個人持ちですね、だけど低音楽器は学校というすみ分けでしたね。
中村:今はドラやチェロも個人で持ってますけどね。
石村:チェロは今でもなかなか個人で持っている人は少なめですけどね。


先輩後輩、現役とOB

ーー1970年頃に“アンサンブルドマン”という活動のことが記録されていますね。これはどういうものですか?
野口:服部正さんが名付親で、ぼくのさらに先輩の時代にやっていたものだったんです。それを1970年頃に復活演奏会を連続してやりました。レパートリーはオリジナル、編曲もの。
田中:当初、卒業した後も練習だけで集まっていたんです。それで卒業生中心に演奏会で出られる受け皿をつくろうということで始めたものなんです。復活は2回で終わりましたけど。
野口:選曲は中村くんや、岡村さんがやってましたな。それまでは定期演奏会に出ていたんです。2部を受け持たせてもらうとかなんかで。
ーーOBアンサンブルの動きはそこまでだったんですか?
田中:その頃までは卒業するとやりたくても活動の場というのがなかったんですよ。それで、やったんですが、その後、社会人活動がさかんになっていって、そのアンサンブルは解消したということです。
ーーそうした交流は、さかんだったんですか?
野口:いや、先輩というのはけっこう煙たかったですから。だから、現役学生の方から交流を働きかけるということはまあ、積極的ではなかったですねえ。逆に先輩の方から持っていく方が多かったと思いますねえ。
田中:その1970年前後というのは大学紛争の頃で、それで断絶した面もありましたね。
野口:ああ、それもあるねえ。
中村:あとねえ、学生とOB直接ということはあまりなくて、当時のOB会の会長やってらした山崎さんの世話でいろいろ企画が持ち上がることはありましたねえ。
ーーそうこうしながら中野先生の指導下にあったのは?
石村:ぼくが4回生のときが最後の年でした。直接教えてもらった指揮者はぼくのひとつ下までですけど。

ーーその石村さんがコンクール優勝されたときはOB会も含め事件だったんじゃないですか?
野口:いやすごいな、と思いましたよ。
中村:さもありなん、と。
ーー指揮は1回生のときからなんですか?
石村:指揮自体は高校のときからやっていたので、大学でももう一度やりたいと思ってました、でも、3回生でサブコンダクター、4回生で正指揮者、とこれはもう今もずっと先輩方からの時代もそういうかたちだと思います。
ーー1回生のとき、先輩とか先輩の演奏とかどう見てました?
石村:いやまず、その前に、今感じるのと違って「大人だ!」と。今はどうしても年齢的に上からの目線というのがあると思うんですが、ぼくが当時感じた3回生、4回生と今の3回生4回生は全然違うんじゃないかという気がしますよね。
ーーでもそれはいつの時代も感じられる雰囲気空気じゃないんですか?
石村:いや、もっとしっかりしてはった気がします、威厳があって。
全員:ははははは。
石村:威厳があって口も聴いてもらえなそうな先輩が多かった気がしますし。今はとにかくみんなでなかよくという感じがあって、よきにつけあしきにつけね。
赤井:中野先生が書き残されている文章に、「同志社は上下のけじめがきついので驚いた」というのがありましたね。
吉村:私らも合宿のとき先輩より先に風呂にはいるとえらい怒られましたもん。
赤井:それから食事は全員そろってからいただくというのが常でしたね。よそやったら、けっこうばらばらだったものね。びっくりした。
野口:でも人数も多かった時代はたいへんでしたよ、200人からいるんですから。風呂なんて入れなかったもの。やっぱり先輩はいばってましたな。
中村:4回生は神様でしたね。3回生が人間ですわ。
全員:あははははは。
ーーそんな先輩でも石村さんの演奏を聴いたら対応が違ったりということは?
石村:そんなんありません!全然特別扱いなしで。
井口:われわれの時代、経験者に対しては、あえて厳しくやってましたね。
石村:すごく厳しかったですよ。それはさきほどのトレーナー制の影響やと思うんですけど。僕らのときも教則本のあるレベルのところまで行かないと合奏に入れてもらえなかった。で、その合否は4回生の方がマルをつけてくれはるんですけど。でも経験者の演奏は、見てくれなかったですもん。見たら弾ける、「上がる」から。だから見ない。で、初めてやったひとたちの「上がり」に合わせて見てくれるという、そういうふうにやってましたね。
中村:それ、意地悪やん。
石村:でもそれがよかったとは思いますよ、今は。


中野二郎色

ーー中野二郎先生時代の合宿というのはどういうムードだたんですか?先生出題のクイズというのが記録に残ってたりするので、けっこう和気あいあいだったんですか?
中村:いや、厳しかったですよ。われわれはぴりぴりしてましたよ。
赤井:厳しかったですね。
吉村:学生指揮者と先生が振るのとで音が違うんですよ。学生指揮者は怒ってましたけどね。
赤井:なんであんなに違うんですかね?
全員:はははは。
吉村:弾けないフレーズが、先生に振ってもらって弾くと弾けたような気がしましたね。
一同:うんうん。
中村:先生は歌うんですわ。その歌を聴いていると弾けたような気になってくるんですね。
井口:演奏をやって、曲の作り込みを本番に照準合わせるというよりも、中野先生に見てもらう日に照準を合わせて練習していたということがありましたね。
一同:うーん。
井口:その日がいちばんピークになるように。
一同:はははは。
井口:本番の演奏は余力でやるというようなかんじでしたね。
赤井:それがしんどいでしたね。10日くらい合宿があったと思うんですけど。先生は後半くらいに来られるんです。それまでに仕上げておかなあかんのです。そのプレッシャーがすごいありましたね。だからパートリーダーとか指揮者とか必死でしたね。それで上手になったんでしょうね。
吉村:というのもね、先生に聞いていただくのがうれしかったし楽しかったなあ。
中村:それで、そこで先生はプリントを用意してきておられて、そこには作曲者と曲名と国を回答するというようなね。
赤井:これ、先輩が残しておいてくれたものですけどね。いや難しいんですよ。
中村:先生は賞品も用意してきておられてね。
吉村:難しいとはいえ、全部間違うやつもおってね。先生は「全部間違うのも難しい」って笑ってましたけど。
山本:(問題を見て)わ、たいへんそう。亡くなった順序まで出題されているんですね・・・すごい。
吉村(現役):難しいわ〜。
中村:楽譜で題名当てるのもあったかな・・・。
野口:中村さんとか、全部調べて解答してたとか聞いたけど?
中村:そうそうそう。
ーーこのクイズ部分も百年史に収録されるんですね?
赤井:はい、そうなんですよ。
ーー中野先生はふだんはどんな方だったというふうに、みなさん見ておられたんですか?
野口:いらっしゃって1〜2年は、なんというかわれわれのやっていることを観察というか見ておられましたね。その頃は管楽器もいくつか入っていたんですが、最初はなにも指摘されなかったですね。
田中:どちらかというと技術指導という面が大きかったでしょうね。
野口:そうですね。
中村:で、そのうち自然と中野色がでてくるんですね。最初の2年間でもなにかと相談していたはずなんですがこれといった影響は出てなかったと思いますね。3年目、4年目から・・・。
田中:一部だけ編曲をもたせてくれというような話になっていきましたけど・・・。5830
中村:それもどちらから言うとというかんじでもなくてね。先生はその頃吹奏楽の曲をたくさん入手されて、「こんなんあるけどどうかな」と言われてね。アマディやマネンテのね。そしたら、ぜひお願いします〜ということになっていったんじゃないかな。

イタリア・マンドリン音楽の魅力



ーーそれらイタリアの作曲家の作品は、思っていた以上に魅力的に思えるものが多そうなんですが、あまり一般的じゃないと思うんですよ。それはなぜか? ということと、みなさんはイタリア作品のどんなところに惹かれるのかおしえてください。
中村:ぼくは学生時代の曲は今は弾かないって決めてるんですよ。ただ、同志社大学マンドリンクラブで言えることは、ここには楽譜がたくさんあるということなんです。中野先生の残された楽譜もたくさんある。学生も含めてたくさんの曲を知っている。こんなことはおそらくほかの学校ではないことなんですわ。
 1800年代から1900年代の中頃まで、じつにたくさんの曲が出版されてる。で、それを岡村さんがイタリアに留学してそのあとも当地で生活しながらたくさんの曲を紹介してくださった。また、今石村さんも発掘して紹介してくれている。いい曲は星の数ほどあると言っても言い過ぎじゃないんですよ。まだ氷山の一角なんじゃないかな。その楽譜、まだじつは見切れていないんですよ。実演が追いついていない。だから魅力と言っても、こう・・・、まだ全貌が見えないかもしれんわねえ。もっと音楽的に専門的な指摘は専門家である岡村さんや石村さんにお任せしたいですけど。
ーーああ、そういう下地と言うか背景がみなさんにはあるんですね。じゃ、お好きな曲、記憶に残る自分の中の名曲、ベスト3とかベスト5ってあげていただくことはできますか?
中村:ああ・・・。あえていえば小品かな。演奏してきた大きな曲はそれはそれで大事な曲やけど、年齢のせいかもしれんけど、いまさらイケイケの曲よりは、マンドリンのオリジナルの小品がいいですね。
田中、赤井:ははは、たしかにね。
赤井:あの、弾くのにもね、奏者に挑戦的な曲って言うのがあるんですね。そういう作品は、作曲者もわかって作っていると思うんですよね。
中村:アマディの「牧歌」でも第3楽章か? 本人も気に入って書いてるかんじが伝わる。ああいう作品は、ぼくは好きですね。
赤井:同志社がレパートリーにしている作品が、今はあまり一般に知られていないというのは、やはり戦争に原因があると思いますね。
 関東の大学は、戦争で楽器も楽譜も焼かれたでしょ。同志社は京都でしたからそういう戦争の具体的な影響というのはあまり受けにくかったんですよ。
 それとイタリアの楽譜だからということで焼かれたこともあるでしょう。イタリア、ドイツは敗戦国でしょ?
ーー占領下での検閲や、政治的なことは影響なしとは言い切れないでしょうね。イタリアといえばオペラや、バロック〜ルネサンス文化等々、音楽上重要な作品、世界的に評価が定着しているものはたくさんありますけど、その近代のところが抜けているのは敗戦ということによる影響は否定できないことがあるでしょうね。逆にいい作品が、戦中までの政治的背景のせいで日の目を見なかったということもあるようですし。
中村:同志社がやっている曲のことで言うと、こういうことがあります。さっきの話の続きにもなるけど、同志社の学生は、身の回りに楽譜がたくさんあるから選曲は、目で選ぶんですわ。音を聞く前に楽譜で決めるんです。よその学校は耳で聞いて選ぶんです。先生に紹介されたり、自分らで見つけたり。最近はどうかしらんけど、ぼくらはそうだったなあ。どうなん?
吉村(現役):最近は・・・音源も参考にしますけどね・・・、すみません。
全員:はははは
吉村:しかしよその大学のマンドリンクラブは同じような曲ばかりやっているように思えるな。
中村:曲を知らんからですわ。
吉村:聴いて選ぶからやな。
田中:ぼくは、好きな曲って言うのとちょっと違いますが、ちょうど中野先生が指導に来られるようになった時期でしたから恵まれていたと言えば恵まれていたんですが、吹奏楽曲の編曲で本邦初演と言うのが何回もありました。そういうのは印象に残っていますね。
ーー100周年記念公演のプログラムは、現役、OBの間での人気作品なんですか?
石村:・・・というのとはまた違う選曲ですけど。やはり、クラブの歴史上重要な曲とかそういうものも選ばれていますから。
岡村:ぼくは「マンドリンの群れ」(ブラッコ)という作品が好きですね。これを弾きたくて同志社大学マンドリンクラブに入ったし。それからファルボの「ニ短調序曲」という曲。それからマッツォーラの「グラウコの悲しみ」。これはわたしは大学時代も何回も何回も弾きましたけど、好きですね。これは今回100年記念演奏会で指揮します。 
吉村:ぼくも小品がいいですね、最近石村先生がやっておられたフィリオリー二という人の「古城の物語」、それに最近学生が弾いていたシルベストリという人の小品が静かできれいでよかったですね。
野口:わたしはやはり学生時代にやった曲がいいですね。今回100周年でやる「メリアの平原にて」(マネンテ)とかですね、それからさきほど岡村さんが言っておられたファルボの「ニ短調序曲」ですね。
赤井:わたしは学生時代にひとつ心残りがあるんです。というのは4回生になったときに「椿姫幻想曲」というのをやることになったんです。これは歌劇「椿姫」から旋律を集めた作品で、曲を中野先生にもらった。
 で、いい旋律がたくさんありますから、音符を拾って弾くのは難しくないんです。でも曲として、演奏として作り上げるのがなかなか難しくて。当時1977年でした。オケの力が落ちていった時期だったんです。それで、奏者がなかなか揃わなくて、表現できなかったんです。あれは心残りでしたねえ。
 あれ、ひょっとしたら、中野先生の中でもそれまで管弦楽や吹奏楽からの編曲と言う路線がありましたが、それらとは別に、今度は歌はどうかな、と試していこうとする時期やったん違うかな、と思うんですよ。それに応えきれんかったゆうかね。あれ、録音を今聴いてもまずいんですねえ。なんとか今の人の力でうまいこと弾いてくれへんかなあ。
石村;ああ、やってみたいですね。


マンドリン合奏のリーダー


井口:でもね、ぼくなんかは赤井さんの頃のことがじつにうらやましかったですね。なぜかというと初演だらけなんですよ。さっき田中さんも言っておられたけど、初演だけで演奏会が成立していた。ちょうど岡村さんがイタリアで楽譜を発掘されて中野先生のもとへそれをどんどん送られていた時期だと思うんですよ。イタリアから日本へ。で、どーんと劇的にレパートリーが増えた時代だったんですよね? 幅が増えたと言うか。あれはわれわれ後輩からしたらうらやましい限りでしたよ。
ーーああ、その時期と重なるんですね?
井口:それで、初演初演って続く。全国からマンドリンクラブの学生が聴きにくる。それで、そのあとに 全国のあちらこちらの大学でこぞって再演していったんですよ。だから、いまでも関東のマンドリンクラブを訪ねると、資料として、ガーッとテープが置いてあります。昭和40年代後半から50年代前半までの同志社大学マンドリンクラブの演奏会のテープがガバーっとある。どこの大学にも置いてあるんです。 石村:91回の定演から95回にかけて。赤井さんの時代がそういう初演のピークでしたよね。
赤井:岡村さんから楽譜をどんどん送っていただいていた頃って中野先生も75歳くらいでしたけど、調子がすごくよかったんですよね。わたしらもいろいろ教えたもらったし。
井口:すごい勢いで仕事されてたんですよね。
中村:ちょうど1940年、1941年のシエナのマンドリンコンクールの入賞曲を岡村さんが見つけて送ってくださったというのもありましたね。20曲ほどあったかな。「英雄葬送曲」(オテロ=ラッタ)とか、今回やる「夏の庭」とか。いい曲がたくさんありました。
ーー「英雄葬送曲」は、今ではマンドリンの世界でメジャータイトルのようですね。でも日本では同志社〜岡村さんが最初だったんですね!
井口:余談ですけど、さっき話した各大学の部室にあるテープ。ぼくはなぜ、同志社の演奏会の記録がそんなところにあるのか不思議だったんです。たいがいのところにある。なぜかな?って思い返したら、当時演奏会場のあちらこちらでカセットテープレコーダーをセットしてね、ほんとうは録音してはいけないはずなんですけど、当時は割とルーズで、京都会館の2階とかテープレコーダーやマイクがずらーっと並んでたんですよ。何十本もマイクが並んでいて。それで指揮者が出てくると、レコーダーのスイッチを入れる音が「ガシャガシャ!」って。
全員:あはははは。
井口:それで、演奏の途中で「ガチャ!」って止まる音が連続して聞こえたり。
全員:あぁ。
井口:ようするに盗み録りというかね。それで、さらにそれをダビングしたテープが出回っているということだったんですよ。それを聴いて、「あ、これをやろう」ということで作品が広がっていったということがあるようです。
ーーすごいですね、そのパワーも。
井口:今はきちんと権利関係が整備されて認めあってるから主催者側でCDにして頒布してそれで聴く。だからおとなしいですよね。昔と比べると、まあそういう勢いが鈍ると言うか。昔はローテクだったんだけど、情報に対してどん欲でスピードもあった気がしますね。
ーー今はまたネット時代ですから、また違う形で、刺激を発信していけたらいいですね、
 ところでイタリアの作品を演奏するということはイタリア文化に対する関心にも結びつくものですか?
石村:実際に演奏するときはたとえばムッソリーニに献呈された作品だ、とかいうような時代背景や関係性は無視できないし知っておきたいですよね。でもイタリアの情報ってドイツほど多くはないんですよ。
ーー少なくともこの座談会のみなさんの発言を通じてイタリア・マンドリン音楽の魅力をもっと発信していけたらいいですね。
 きょうはありがとうございました。