ギターの時間、2010年2月1日号
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SMD

出席(写真後列左から):
吉村宣央(4回生)
赤井 悟(53年卒)
田中昭彦(42年卒)
中村泰彦(42年卒)
山本さん(3回生)
(前列左から)
井口祐一(60年卒)
吉村良之(42年卒)
石村隆行(60年卒)
岡村光玉(45年卒)
野口英介(39年卒)
・・・の各氏

(interview:Kazutaka Ebe/photo:KaeruCamera)

Sony Style(ソニースタイル)

トレーナー制度



ーーこのクラブはOBとの交流もさかんなようにお見受けします。みなさんがマンドリンに熱中した時代、ある期間だけだったとはいえ「トレーナー制度」というのを取り入れて、成果を上げておられましたよね。それも、OBとの交流のひとつだと思うんですが、まず、合同演奏というのはずっと伝統的にあるんですか?
野口:OBと現役がいっしょにやるというは、80周年記念の合同演奏会とかね。
中村:それまでは、なかったですよね? それが初めてだったと思います。
赤井:戦後すぐの頃は、OBもいっしょにステージに出てましたけどそれは、現役だけでは構成人数がカバーできなかったのでね。だから特別な場を設定しなくてもOBとの接点はあったと思うんです。
中村:1960年以降人数が増えてきたということがあって・・・。
赤井:急に部員数が増えてきて、そうなると奏法の伝達なんて言うのはかんたんにできんようになってきて、それで、トレーナー制度を導入したんですよ。
中村:1回に100人からの人数が入ってきましたからね。
ーーその頃の部室とか練習場所はどんなだったんですか?
田中:今と同じ位置にありましたけどねえ。
野口:今の鉄筋の校舎と違って木造の平屋で。
田中:暖房も冷房もないところでね。
中村:で、平日は木造の2階の部屋で、土曜日は幼稚園でやってたましたな。園児用の小さい椅子にすわってね。
赤井:ぼくの時は前の学生会館の場所でやってましたね。で、途中から新町館ができましてね、そこでやるようになりましたね。幼稚園は僕のときは使わなかった。ほかには御所の木陰で練習したり。
吉村:野外やな。はははは。

※クラブは創世記、菅原明朗さんという作曲家の先生に指導を受け飛躍的にオーケストラとして技術、方針ともに同志社らしさを確立した。これが、第1回、第2回マンドリンコンクール連覇という実績を残すことに貢献している。この人は、のちに服部正ら日本の昭和歌謡史、音楽史を彩る名作曲家を数多く育て、自身死の直前まで作曲活動に人生を費やす。日本のクラシック音楽史に燦然と実績を残した人だ。
 残念ながら演奏された作品のレコード、CDは少なく、またポピュラー作品や放送関係とは縁が薄かったことから、一般的な知名度はそう高くないのだが。この人が東京で音楽生活を始めると、クラブとはやや疎遠になり、クラブはしばらく音楽的な指導者不在の期間が続く。クラブの方針も時代の流れとともに、確たるものが薄れた時期がある。それを案じたOBらを中心に、菅原氏に相談し、推薦されたのが名古屋在住の中野二郎氏だった。




(続きます)

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▲NACD-2115/6 「ドイツ音楽特集」 2006年2月録音〔2枚組CD〕
* 歌劇「リエンツィ」序曲  /R.ワーグナー
* マンドラとツプフオーケストラの為の協奏曲ロ調 /G.ブラウン (マンドラ独奏:佐久間絵理)ほか


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